「夏の夜の『彼女』」

夏も終わりの頃のこと、まだまだ蒸し暑い夜でした。
私は「彼女」と友人と飲んだその帰りに出会ったのです。

友人と別れて、私はネオンで明るい町を一人歩いていました。駅に向かっていたのです。 時間は―――そんなに遅くなかったはずです。翌日仕事があったのではやめに切り上げたのです。 足下もわりとしっかりしていたと思います。
慣れた道ですから迷ったりはしませんでした。――ところがそれでもうすぐ駅に着くという所で、急に誰かに呼ばれた気がしたのです。 私は立ち止まって辺りを見回しました。しかし他人はたくさんいましたけれど私を呼ぶようなひとは見当たりませんでした。
気のせいだと思って私はまた歩き出そうとしました。―――けれどまた誰かが私を呼ぶのです。
今度ははっきりと聞こえました。
「アキヨシ」。
私の名前をはっきりと呼んだのです。
私は今度はしっかりと声のした方へ身体ごと振り返りました。ある狭い路地でした。
「誰だ」私は言おうとして息をのみました。
ちかちかするネオンに浮かぶように女のひとの顔があったのです。
そして、彼女には身体に当たる部分がないように見えました。
顔だけがちょうど立ったらそれくらいだろうという高さに存在していたのです。
「彼女」は目だけ下を向いたままそっと佇んでいました。
悪意を感じるような表情ではありませんでした。
しかし見覚えがあるような気もします。
私は何だか恐くなって逃げました。
駅の券売機まで走り、急いで切符を買い、ちょうど扉が閉まりかけていた電車に飛び乗りました。
誰かに注意されたような気もしますがそれはよく覚えていません。
それよりも早く帰りたくてたまりませんでした。
電車のたったふた駅がとても長く感じました。

ようやく家に帰り、一息ついていると、留守電のランプが点滅しているのに気がつきました。
父親からでした。
「10年前から失踪していた姉が遺体で見つかった」。
なるべく急いで帰ってきてくれ、とのことでした。
留守電を聞き終わって私ははっとしました。
「彼女」の顔に見覚えがあったわけ。
そうです、「彼女」は10年前の姉そっくりだったのです。


翌朝、私は仕事を休んで実家に帰りました。
姉は生前の面影はありませんでした。
滅多にひとも入らない山の中で白骨になっていたのです。
発見したのは肝試しをしていた中学生たちときかされました。きっとさぞ驚いたでしょう。
警察の話によると姉は失踪したほとんど直後に死んでいたらしい、ということでした。 きっとあしを滑らせて斜面を転げて頭を打ってしまったのだろう、事件性は恐らくないだろう、と。
父も母も、もう半分あきらめていたのか憔悴してはいたものの涙は見せていませんでした。
「彼女」のことを話そうかとも思いましたが、やめました。伝えた所でどうにもなりません。
第一私が「彼女」がなんなのか理解しかねていたのです。
もしかしたら姉に似ていただけの他人かもしれないし、酔った勢いで見た幻だったのかもしれないのですから。

それから今まで私は「彼女」のことを誰にも話しませんでした。
けれど忘れていたわけではありません。
「彼女」のことはずっと頭に引っかかっていました。
今回話す気になったのは―――なぜでしょうね。私もよく分かりません。

ただ、毎年今の時期になると考えることがあります。
「彼女」が
私の前に現れたのはなぜなのか。
私の名前を呼んだのはなぜなのか。
なぜあのタイミングだったのか。
「彼女」は姉だったのか。

確かめるすべはありません。


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